盆栽に思う |
庭木や盆栽はいいな 年をとり、身体がよぼよぼになり、歩くことすら大変になってくる。 周りの人たちが、「おじいちゃん」、「おばあちゃん」と声をかけてくれるのはありがたいことだ。 そんなふうに声をかけてくれるのはごくまれで、まず周りは見て見ぬふりをする。 さびしいものだ。 しかしその反面、「おじいちゃん、おばあちゃん身体は大丈夫?」「歩いていかれるの?」などと声をかけられてしまうと、「ああ、私も本当に年寄りになってしまったのか。もう先が短いなあ。」と、心まで年寄りになってしまう気がする。 実際、身体もボロボロになり、歩く姿も今にも倒れそう。 いまや人生80年、100年と聞こえはいいけれど、こんな状態になってしまってはつらい思いの方が大きくなる。 自分で自由に動ける人は、幸せと感謝の気持ちでいっぱいだろう。 家族がやさしく面倒をみてくれる人も本当にありがたいと思っているだろう。 世の中には、年老いて病に伏した親でさえ、子供達から見放されてしまうこともある。 年を重ねるごとに、元気であることが幸せであることをしみじみ感じる。 庭木であれば、樹齢何十年、百何十年などたっていれば、すばらしいものだと褒め称えられる。 そして庭師さんたちの手で美しくほどこされ、家の人からも毎日丁寧に扱われ、すばらしい、美しいと大切にされる。 盆栽もそうである。 毎日丁寧に手入れされ、この角度が美しいなどと、宝物のように大事に育ててくれる。 人間は、年をとると、シワシワになって、ヨボヨボになっていく。 年をとって、みかけがヨボヨボになっても、明日へ向って生きていきたい。 庭木や盆栽のように、年を重ねるたびに大切にされていく、美しくなっていく、そんなふうに生きていきたい。 年老いた人間には、積み重ねてきた年月の中で、いろいろな知識、経験、思いがたくさんつまっている。 邪魔者扱いされて、心を閉ざしてしまう老人もいる。 みかけがシワシワでもヨボヨボでも中につまっている明るい光りをみつけてほしい。 それが、どんなにすてきな宝物かわかるだろう。 若くなければ、生きていく価値がないのならば、いずれ若さを失ったときに同じような思いをするだろう。 同じ命、夢を見ることも、希望を持つことも、許されないのだろうか。 命のある限り、輝いていたい。 どうか一筋の明かりをください。 |
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